ある日ある時
◆ 自分で考えてごらん
「こんな問題、解けないよ」
問題を読まないうちから彼女はぼくの顔を見て言う。
「大丈夫だよ。さっきの問題と同じだから」
それでもなかなか問題文を読んでくれない。ぼくは鉛筆で文章をなぞりながら読み始める。
「酸化銅の粉末に炭素を混ぜて加熱する。酸化したものに炭素を混ぜるんだ。どうなる。さっきの問題は酸化鉄に炭素を混ぜて熱したんだ。鉄と銅の違いだけど、同じような反応が起こるんだ」
そこまでいって初めて彼女は問題を読み始めた。勉強なんかしたくないと言いたげな表情が少しずつ変化していく。それでも直ぐにぼくの誘いに乗ってくれるわけではない。
「忘れちゃった」
「酸化銅は何と何が結びついたもの?」
「酸素と銅」
「そうだ。酸素と銅に炭素が混ざっていると考えてごらん。結びつきが変わるんだ」
次第に瞬きが多くなる。考え始めたのだ。
「酸素と結びつくのが酸化だったね。じゃあその結びついた酸素をとられちゃうのは何て言う?」
「還元だったかな」
「なんだ分かってるじゃないか。酸化と還元の問題だ。解けるかな?」
彼女は鉛筆を持った。
学習の援助というものは本人が自分の脳を使って考えようとするまで背中を押してあげることではないかと考えている。「さっきの問題と同じだ。自分で考えてみろ」そう突き放したら彼女は勉強には向かえない。援助を繰り返していると、彼女の心の中に微かに自信めいためいたものが芽生えてくる。自分でやってみようかな、という気持ちが少しずつ湧いてくる。
◆ 投げやりな子の心の中
彼女は勉強だけではなく、何に対しても投げやりなのではないかと思う。勉強の取り組み方を見ているとそんな気がする。性格検査の結果を調べると、やはり劣等感の値が大きい。日常生活では不満が多いのだ。自分が認められない、損ばかりしている、そう思い込んでいるのだろう。そして自分に自信がない。だから何事に対しても自分から積極的に行動することはない。
なぜこんなに劣等感が強いのか。ぼくは彼女の学習を見ながら、そう考えることが多い。しかし多くの場合その原因は分からない。日々の生活の中で培われたものだからだ。ぼくはそんなとき、原因追求よりも、学習を通して彼女の劣等感を小さくしていく方向を模索していくことにしている。指導の中で、一つ一つ自分の力で考えていけば必ず答えにたどり着ける、と彼女自身が信じられるまで後押しを続けていかなければならない。彼女の気持ちに沿って、揺れる心に沿って援助していくことが一番の近道ではないか。子供たちが自分で動き出すまで、気の遠くなるほどの時間と労力を注ぎ込まなければならない。
◆ 勉強が楽しくなるって?
「たくさん間違えた方ができるようになるんだ」
と言いながらぼくは彼女の心が前向きになるように指導する。なんでこんな問題が分からないんだ、という気持ちをぼくが持ったらその時点で彼女は勉強を中断する。不思議なもので子供たちは、親や先生が言葉に出さなくても相手の気持ちを読むことができる。これは長年指導してきてのぼくの実感だ。そのうち彼女は、
「ちょっと待って」
とぼくの説明を止めてくる。しばらく時間をあげて、また説明を始める。そして、できなかった前の問題にちょっと戻って問い掛けると、即座に答が返ってくる。そんなやりとりを繰り返すうちに彼女は
「別の問題はないの?」
自分から問題に取り組み始める。これだったら自分の力で正解が出せるかもしれないという予感。この予感こそ、自信回復の第一歩ではないだろうか。